2007年10月29日月曜日

感じられること、は あるという事。


夜、事務所で図面をひいていて、ラジオから聞こえた話にふと手が止る。
今の若者達がCDを買わなくなったという話題で、アンケートの理由のひとつが、CDは傷がついたりめんどくさいからという。レコードを宝物の様に扱っていた時代もあったのになぁ、と冷めたコーヒーを一口啜る。

数年前、カメラマンの河野俊之氏(こうのとしゆき)と事務所でお茶を飲みながら、こんな話しになった事がある。これから写真はどうなるんだろうな?「フィルムは無くなるのか?」まだデジタル一眼レフは一部のプロ向けで、小型のデジカメの画素数がみるみる増えている頃だった。

「フィルムは無くならないと思うよ」と河野氏「例えばねCDとレコードだけどな、CDは人に聞こえる範囲の音しか使わないそうだが、レコードにはその範囲の上の音も下の音も聞こえないけど入っている、人はこれを感じられるそうだ。フィルムだってデジカメみたいに升目にくっきりと色分けされる訳ではないからそういう微妙な色合いの範囲があって、人はこれも感じられるそうだ」
なるほど。じゃぁデジタル化が進むという事は感じる部分を削除したものを見たり聞いたりするという事なのか?「うぅ~ん、まぁそうだろうなぁ」ふ~ん。もともと聞こえていない所は無なのかねぇ?感じられるというのは有るという事だよなぁ。「なんかだかやだなぁ寂しいなぁと今俺は感じているよ」。うぅ~ん。

別の日、当時から仕事でマッキントッシュを使っている親友のグラフィックデザイナー小柳和夫氏に展示会のカタログを頼みに行った。小柳がマックを使う様になる前まではGデザイナーというのはDICの色番が頭に入っていて、カラスグチとカッターとスプレーボンドの達人でロゴなんかも雲形定規などを駆使して書いていて、いつも締め切りに追われているから、その無駄のない動きは見事なもんだった。ほかに写植職人や調色職人もいた。今もいるのかなぁ?
小柳が「マック使えたらもっと仕事出せるのにって言われちゃってなぁ」と呟いていたのを思いだす。(それほど昔の話ではないんですよ。)

カチカチとやっている小柳の横に座って、「あぁっそこはシュバッとしたいなぁ」とか「あっといぃんだけどもう少しホワッとなんないかなぁ、ここからこんな風にグゥ~ワァ~っときてここでスパンッとなってさ、はみ出ちゃっていいよ。ガガッとさ」と僕としてはこれ以外にないほどの緻密な表現で伝えたつもりだが、小柳は不機嫌になり、なりつつも、いつもイメージ通りに仕上げてくれるのだ。

深夜、作業をしている疲れた親友の横顔を見ながら。感じ取れる奴らと友達で良かったなぁ俺ぁ、いつまでも健康で長生きして下さいよ。と熟練職人さんに会った時と同じような事を心から祈ってしまう。